Arrival:その2:「博士の愛した数式」とapterous



 小川洋子氏が2003年に発表した「博士の愛した数式」という小説があります。2004年に第一回本屋大賞を受賞し、映画化され、英訳版 "The Housekeeper and the Professor" も出された有名な小説なので、ご存じの方も多いでしょう。実は私はこれまで読んだことがなくて、先日の金曜に初めて読破しました。


 主人公は数論専門の元大学教授である64歳の「博士」です。この博士は47歳の時に交通事故に遭って頭を打って以来、彼の記憶はその時点(※小説内では1975年)でストップし、その後の記憶は80分しか持たなくなってしまいました。そのため、いつも着ている背広の袖には、「ぼくの記憶は80分しかもたない」と書かれたボロボロのメモが留められています。

 その博士のもとに、28歳のシングルマザーが家政婦として働くことになります。やがて博士の背広のもう一方の袖には、「新しい家政婦さん と、その息子10歳 √(※ルート)」と書かれたメモが取りつけられることになります。

 3人によって織りなされる日々の出来事が、小川洋子さんの美しく繊細で暖かくフォトジェニックな描写によって、読者の心に染み入ってきます。


 小説内には数論の要素がちりばめられていますが、どれも小学校高学年の知識があれば理解できるもので、数学が苦手な人も難なく読めるような配慮がなされています。タイトルにある「博士の愛した数式」とは、オイラーの等式「e^iπ(※eのiπ乗)+1=0」のことです。高校数学までを学び続けてきた人のみが、この数式に出会った時、大いなる驚きと歓喜と不可思議さを感じ、圧倒的な存在らしきものの存在が脳裏を横切らざるを得ない、そんな数式です。

 この等式で用いられている e はネイピア数、 i は虚数単位、π は円周率を表します。虚数単位 i は2乗するとマイナス1になる数ですが、小説内で家政婦さんが「そんな数は、ないんじゃないでしょうか」というと、博士はこう答えます。


  「いいや、ここにあるよ。」

 彼は自分の胸を指指した。

  「とても思慮深い数字だからね、目につく所には姿を現さないけれど、ちゃんと我々の心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」

  私たちは再び沈黙し、どこか知らない遠い場所で、精一杯両手をのばしているらしいマイナス1の平方根の様子に思いを巡らせた。雨の音だけが聞こえていた。

(小川洋子著「博士の愛した数式」、新潮社、2005年2月)


 小川洋子さんの筆にかかると、虚数単位がとても愛おしいものに思えてしまいます。すごいなぁ。


 ところで、いきなりなぜこの小説について書いたのかというと、前回述べたプラナリアに関連してくるからです。

 この小説の設定では、博士は脳障害によって、古い記憶は残っていますが、新しい記憶は15分ごとに消えていってしまいます。

 普通の人も、すべての出来事を覚えているわけではありませんが、1日を通してインパクトのある出来事や同じ経験の繰り返しによって、長期記憶が保存されます。

 長期記憶固定の仕組みはまだ解明されていませんが、 apterous という遺伝子が関わっている可能性があるそうです。


  apterous という遺伝子は、ハエの翅や神経回路を作るために必要な遺伝子として、古くから知られていたそうです。この遺伝子が突然変異を起こすと、翅が異常形態を示すとともに、長期記憶が固定できなくなるそうです。

 ヒトを含む哺乳類にもハエの apterous と全く同じ遺伝子が存在し、大脳側頭葉の深部に位置する海馬で発現されています。海馬は記憶に関わる部位と考えられていることから、哺乳類の apterous 遺伝子の研究によって、記憶メカニズム解明の手掛かりが得られるかもしれないと考えられているそうです。


 通説及び上記の論文等から、記憶というものは当然、脳内で起こると考えられますが、神経を有するプラナリアにおいては、普通の体細胞においても記憶が固定されているそうなのです。


 で、長くなったので、プラナリアに関しては次回に書いていこうと思います。

 本来このコラムは、"Arrival" という映画に関して思ったことを書くことが目的なのでありますが、目的に達するまでに10回以上かかりそうな勢いです。すんません。

 最後に書きたいことっていうのは、決まっているんですよ。そこにたどり着くまでに、いろいろな経路を経たいわけで、ふらふらと散策しながら進めていきたいと考えています。

 余談なのですが、「博士の愛した数式」のお話と、映画 "Arrival" の主題は、おそらく正反対のものであるにも関わらず、強烈な共通点があるように思います。先日、コメダ珈琲で「博士の愛した数式」を読み終えて、自転車に乗って2~3分くらいしてからそのことに気づき、鳥肌が立って涙がじんわりと出てきてしまいました、お恥ずかしい・・・

 3,4カ月後には多分、結論とこれらの共通点について書いていけると思います、多分。頑張ります。

 


参考文献

・小川洋子著「博士の愛した数式」、新潮社、2005年2月

・Show Inami, Tomohito Sato, Yuko Kurata, Yuki Suzuki and Takaomi Sasaki, "Consolidation and maintenance of long-term memory involve dual functions of the developmental regulator Apterous in clock neurons and mushroom bodies in te Drosophila brain", 'PloS Biology, 2021.